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衛霊公第十五 23 子貢問曰有一言而可以終身行之者乎章

402(15-23)
子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人。
こういていわく、一言いちげんにしてもっしゅうしんこれおこなものりや。いわく、じょか。おのれほっせざるところは、ひとほどこすことかれ。
現代語訳
  • 子貢がきく、「ただひとことで一生守れることがありますか。」先生 ――「まず思いやりだな。自分のいやなことは、人にもしむけるな。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • こうが「ただ一言で一生のこうじゅんそくたり得るものがござりますか。」とおたずねしたら、孔子様がおっしゃるよう、「まず『じょ』かな。恕は結局、自分がされたくないことを人にするな、ということじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子貢がたずねた。――
    「ただ一言で生涯の行為を律すべき言葉がございましょうか」
    先師がこたえられた。――
    「それはじょだろうかな。自分にされたくないことを人に対して行わない、というのがそれだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子貢 … 前520~前446。姓は端木たんぼく、名は。子貢はあざな。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
  • 一言 … ひとこと。
  • 可以 … ~する値打ちがある。
  • 終身 … 一生。
  • 之 … 直接指すものはない。
  • 者 … ここでは、言葉を指す。
  • 有~乎 … 「有りや」「有るか」と読み、「~が有りますか」「~はないでしょうか」と訳す。疑問(質問)の意を示す。
  • 其~乎 … 「それ~か」と読み、「まあ~だろうよ」と訳す。感嘆を伴った強い推断の言い方。
  • 恕 … 思いやり。
  • 己所不欲 … 自分がいやだと思うこと。
  • 勿施於人 … 他人に対してしてはならない。「勿」は、禁止の意を表す。「~してはいけない」「~するな」の意。
  • 己所不欲、勿施於人 … 「顔淵第十二2」の中にも同じ言葉が出てくる。故事名言「己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」参照。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人は当に己を恕して以て物に及ぼすべきを言うなり」(此章言人當恕己以及物也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人えいひとあざなは子貢、孔子よりわかきこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁をしりぞく」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、あざなは子貢、衛人。口才こうさい有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 有一言而可以終身行之者乎 … 『義疏』に「善事を求め、以て終身之を奉行せんと欲するを問うなり」(問求善事、欲以終身奉行之也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「孔子に身を脩むるの要道を求むるを問うなり」(問於孔子求脩身之要道也)とある。
  • 行之者乎 … 『義疏』では「行者乎也」に作る。
  • 其恕乎 … 『義疏』に「此れは是れ終身行う可きの一言なり。恕は、内己の心に忖し、外以て物を処するを謂う。言うこころは人世に在りて、当に終身恕を行うべきなり。故に云う、其れ恕か、と」(此是可終身行之一言也。恕、謂内忖己心、外以處物。言人在世、當終身行於恕也。故云、其恕也)とある。また『注疏』に「孔子答えて言う、唯だ仁恕の一言のみ、終身之を行う可きなり」(孔子答言、唯仁恕之一言、可終身行之也)とある。
  • 己所不欲、勿施於人 … 『集解』の何晏の注に「言うこころは己の悪む所は、人に加施すること勿かれ」(言己之所惡、勿加施於人)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ恕の事を釈するなり。夫れ事己の欲する所に非ざる者は、人に施し度与どよす可からざるなり。既に己の欲せざる所は、亦た必ず人の欲せざる所なり」(此釋恕事也。夫事非己所欲者、不可施度與人也。既己所不欲、亦必人所不欲也)とある。また『注疏』に「己の悪む所、人に加施すること勿きは、即ち恕なり」(己之所惡、勿加施於人、即恕也)とある。また『集注』に「己を推して物に及ぼせば、其の施すこと窮まらず。故に以て終身之を行う可し」(推己及物、其施不窮。故可以終身行之)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く尹焞の注に「学は要を知ることを貴ぶ。子貢の問いは、要を知ると謂う可し。孔子告ぐるに仁を求むるの方を以てす。推して之を極むれば、聖人の無我と雖も、此を出でず。終身之を行うも、亦た宜しからずや」(學貴於知要。子貢之問、可謂知要矣。孔子告以求仁之方也。推而極之、雖聖人之無我、不出乎此。終身行之、不亦宜乎)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「夫れ人の悪は見易くして、人の憂いは察し難し。己を処するは則ち寛にして、人を待するは必ず刻なり。此れ人の通患なり。故に恕を以て心と為せば、則ち深く人を咎めずして、能く過ちをゆるし難を救う。其の効すぐれて言う可からざる者有り。故に曰く、以て身を終うるまで之を行う可し、と。子貢嘗て一貫の旨を聞きて未だ其の方を知らず。故に問う、一言にして以て身を終うるまで之を行う可き者有りか、と。而して夫子之に答えて曰く、其れ恕か、と。猶お曾子門人に答えて、夫子の道は忠恕のみ、と曰うの意のごとし」(夫人之惡易見、而人之憂難察。處己則寛、而待人必刻。此人之通患也。故以恕爲心、則不深咎人、而能宥過救難。其效有不可勝言者矣。故曰、可以終身行之。子貢嘗聞一貫之旨而未知其方。故問有一言而可以終身行之者乎。而夫子答之曰、其恕乎。猶曾子答門人曰、夫子之道忠恕而已矣之意)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「己の欲せざる所をば、人に施すこと勿かれ。此れかい正文に入りしなり。何となれば、孔子何ぞ必ずしも恕の字を解せんや。恕は孔子の時に在りて、豈に解を待たんや。仁斎乃ち曰く、夫子既に恕を以て子貢に答え、而うして又た恕を行うの要を以て之に告ぐ、と。豈に是れ有らんや。……仁斎の意は後の二句未だ恕の義を尽くさざるを以て、故に以て恕を行うの要と為す。豈になずめるに非ざらんや」(己所不欲、勿施於人。此解入正文也。何則、孔子何必解恕字乎。恕在孔子時、豈待解乎。仁齋乃曰、夫子既以恕答子貢、而又以行恕之要告之。豈有是哉。……仁齋之意以後二句未盡恕之義、故以爲行恕之要。豈非泥乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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