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里仁第四 1 子曰里仁爲美章

067(04-01)
子曰、里仁爲美。擇不處仁、焉得知。
いわく、じんなるをしとす。えらんでじんらずんば、いずくんぞなるをん。
現代語訳
  • 先生 ――「住むのは気ごころ。住みあてないのは、チエ者でない。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「住むには仁徳の風俗厚き地方がよろしい。住むべき『仁の里』の選択せんたくができないようではとはいえない。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 里仁為美 … 村落は仁徳のある人が多く住んでいるところがよい。「里」は、二十五軒の家からなる集落。また荻生徂徠の説では「里仁為美」は古言であるとし、「里」を「居」と解して「仁にるをす」と読み、「仁の徳を行動の拠り所とするのが美しくよいことだ」と解釈している。また宮崎市定も「里仁為美」を古典の中の句であるとし、全文を「家を求めるには人氣のよい里がいちばんだ、という古語がある。どんなに骨を折って探しても、人氣の惡い場所に當ったら、それは選擇を誤ったと言うべきだ」と訳している(『論語の新研究』195頁)。
  • 美 … 立派である。理想的である。
  • 択 … 選び取る。選択する。
  • 処 … 居に同じ。
  • 知 … 智に同じ。
  • 択不処仁、焉得知 … 古注・新注ともに「住居を選んで仁者の里に住まなければ知者ではない」と解釈している。荻生徂徠はこの説を否定し、「人が行動の立場を仁にかなければ知者ではない」と抽象的に解釈している。
  • 焉 … 「いずくんぞ~ん(や)」と読む。「どうして~であろうか、いや~でない」と訳す。反語の形。
補説
  • 里仁第四 … 『集解』に「凡そ卄六章」(凡卄六章)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「里とは、鄰里なり。仁とは、仁義なり。此の篇は凡人の性、染箸を為し易きを明らかにす。善に遇えば則ちのぼり、悪に逢えば則ちつ。故に居処は宜しく慎みて、必ず仁者の里を択ぶべきなり。前者にぐ所以は、季氏の悪を明らかにし、仁に近づかざるに由る。今悪を避け善にうつり、宜しく仁の里に居るべきを示す。故に里仁を以て季氏に次ぐなり」(里者、鄰里也。仁者、仁義也。此篇明凡人之性易爲染箸。遇善則升、逢惡則墜。故居處宜愼、必擇仁者之里也。所以次前者、明季氏惡、由不近仁。今示避惡徙善、宜居仁里。故以里仁次於季氏也)とある。染箸は、俗世間に染まり、これに執着すること。染著に同じ。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此の篇は仁を明らかにす。仁とは、善行の大名なり。君子は仁を体し、必ず能く礼楽を行う。故に以て前に次するなり」(此篇明仁。仁者、善行之大名也。君子體仁、必能行禮樂。故以次前也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「凡そ二十六章」(凡二十六章)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『注疏』に「此の章は居は必ず仁を択ぶを言うなり」(此章言居必擇仁也)とある。
  • 里仁為美 … 『説文解字』巻十三下、里部に「里は、居なり」(里、居也)とある。ウィキソース「說文解字/13」参照。また『集解』に引く鄭玄の注に「里とは、民の居る所なり。仁者の里に居る、是を善と為すなり」(里者、民之所居也。居於仁者之里、是爲善也)とある。また『義疏』に「里とは、民の居る所の処なり。周家王城百里を去る、之を遠郊と謂う。遠郊の内に六郷有り。六郷の中、五家を比と為し、五比をりょと為し、五閭を族と為し、五族を党と為し、五党を州と為し、五州を郷と為す。百里の外二百里に至るまで之を六遂と謂う。遂の中は五家を隣と為し、五隣を里と為し、四里をさんと為し、五酇をと為し、五鄙を県と為し、五県を遂と為す。二百里の外王畿に至るまで五百里の内、並びに六遂の制と同じきなり。仁者は、博く施して衆を済うなり。言うこころは人の居宅、必ず仁者有るの里を択ぶ。美と為す所以なり。里仁既に美と為せば、則ち閭仁も亦た美なることは知る可きなり」(里者、民之所居處也。周家去王城百里、謂之遠郊。遠郊内有六郷。六郷中、五家爲比、五比爲閭、五閭爲族、五族爲黨、五黨爲州、五州爲郷。百里外至二百里謂之六遂。遂中五家爲鄰、五鄰爲里、四里爲酇、五酇爲鄙、五鄙爲縣、五縣爲遂。二百里外至王畿五百里之内、竝同六遂之制也。仁者、博施濟衆也。言人居宅、必擇有仁者之里。所以爲美也。里仁既爲美、則閭仁亦美可知也)とある。また『注疏』に「里は、居なり。仁者の居処する所、之を里仁と謂う。凡そ人の居を択ぶや、仁者の里に居るを、是れ美と為すなり」(里、居也。仁者之所居處、謂之里仁。凡人之擇居、居於仁者之里、是爲美也)とある。また『集注』に「里に仁厚の俗有るを美と為す」(里有仁厚之俗爲美)とある。また『孟子』公孫丑上篇に「仁にるを美と為す。択んで仁に処らずんば、焉んぞ智たることを得ん。夫れ仁は、天のそんしゃくなり。人の安宅あんたくなり。之をとどむる莫くして不仁なるは、是れ不智なり」(里仁爲美。擇不處仁、焉得智。夫仁、天之尊爵也。人之安宅也。莫之禦而不仁、是不智也)とある。ウィキソース「孟子/公孫丑上」参照。
  • 択不処仁、焉得知 … 『集解』に引く鄭玄の注に「善居を求めて仁者の里に処らずんば、智有りと為すを得ざるなり」(求善居而不處仁者之里、不得爲有智也)とある。また『義疏』に「中人は染り易く、善に遇えば則ち善に、悪に遇えば則ち悪なり。若し居を求めて仁の里を択ばずして之に処らば、則ち是れ智無きの人なり。故に云う、焉んぞ智なるを得んや、と」(中人易染、遇善則善、遇惡則惡。若求居而不擇仁里而處之、則是無智之人。故云、焉得智也)とある。また『注疏』に「焉は、猶お安のごときなり。居処を択び求めて、仁者の里に処らずんば、安くんぞ知有りと為すを得んや」(焉、猶安也。擇求居處、而不處仁者之里、安得爲有知也)とある。また『集注』に「里を択びて是に居らざれば、則ち其の是非の本心を失いて、知と為すを得ず」(擇里而不居於是焉、則失其是非之本心、而不得爲知矣)とある。
  • 知 … 『義疏』では「智」に作る。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ言うこころは居の美ならざるは、すなわせんす可し。身を処すること一たび其の所を失せば、則ち其の害げて言う可からざる者有り。然れども人皆居を択ぶことを知りて、身を処するに至りては、則ち其の是非を弁ずることを知らずして、多く不仁に失す。是れ不智の甚だしきなり。斯れ之を類を知らずと謂うなり」(此言居之不美、輙可遷徙。處身一失其所、則其害有不可勝言者矣。然人皆知擇居、而至於處身、則不知辨其是非、多失於不仁。是不智之甚也。斯之謂不知類也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「仁にるを美と為すは、古言にして、孔子之を引く。何となれば、里を居と訓ずること、孟・荀徴す可し。仁に居るを里仁と曰うは、孔子の時の言に非ず。故に其の古言たることを知るなり。択びて仁に処らずんば、焉んぞ知を得んとは、孔子の言なり。何を以てか之を知る。里を変じて処と為せばなり。……凡そ知者は必ず択ぶ所有り、故に択ぶと曰う。必ずしも居を択ぶの謂に非ざるなり。且つ古人は皆土著し、居を択ぶの事は至って少なし。且つ二十五家を里と為す。里ごとに仁厚の俗有りとは、人情に近からず」(里仁爲美、古言、孔子引之。何者、里訓居、孟荀可徴焉。居仁曰里仁、非孔子時之言。故知其爲古言也。擇不處仁、焉得知、孔子之言也。何以知之。變里爲處也。……凡知者必有所擇、故曰擇。非必擇居之謂也。且古人皆土著、擇居之事至少矣。且二十五家爲里。里有仁厚之俗、不近人情矣)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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